愛媛県今治市の菊間町で生産される「菊間瓦」は約750年の歴史をもち、皇居御造営の御用瓦を献上するなど、日本の格式ある建築を支えてきました。
美しいばかりでなく機能性も備えた菊間瓦は多くの寺社仏閣や住宅で用いられています。
製造の大部分が機械化された後も手作業部分を大切にし、伝統技術を伝承した鬼瓦などの細工瓦を特色とします。
また近年では、瓦タイルや外壁材・装飾品や日用品など新たな用途商品への挑戦も始まっています。

菊間瓦とは

今治市の西部に位置する菊間町では、古くから瓦産業が盛んでした。この地で製造される瓦を『菊間瓦』と呼んでいます。
菊間瓦には、いぶし銀のような独特の美しい色と艶があることから『いぶし瓦』と呼ばれることもあります。

加茂神社の菊間瓦

加茂神社に葺かれた菊間瓦

産地の特徴

菊間町は瀬戸内海に面し、温暖な気候で雨が少なく、瓦を自然乾燥するのに適した気候です。
また町内から「五味土」という瓦の原料となる土が出土し、窯焚き燃料となる松葉にも恵まれていました。
さらには海に面し、混合する原材料や商品を運搬する海上交通も発達していたなど、瓦を生産し販売する条件が揃っていたため、瓦の産地として発展していきました。

かつての菊間の様子

菊間の様子を再現したジオラマ(かわら館所蔵)

海上輸送に便利であった海沿いを中心に瓦産業は発展し、現在も海沿いの国道近くには瓦業者たちが軒を連ねています。

海沿いの国道に並ぶ瓦業者

海沿いの国道に並ぶ瓦業者

瓦の特徴

菊間瓦は、いぶし銀の輝きを長く保ち、和風建築を優美な姿に仕上げます。
また、見た目の美しさだけでなく、防水性・耐寒性・耐久性等に富み、機能面でもすぐれており、県内の格式ある文化財・日本建築を代表する神社仏閣・住宅などに広く使用されています。

加茂神社に葺かれた菊間瓦

加茂神社に葺かれた菊間瓦

一口に瓦といっても多種多様であり、その種類は数百にものぼると言われますが、菊間瓦のサイズは屋根を一番美しく見せると言われています。
菊間瓦の種類には、役物瓦(道具瓦)が多く、屋根を象徴する鬼瓦など細工物が特徴です。

細工物の瓦の代表ともいえるのが「鬼瓦」です。鬼瓦は、和風建築の棟の末端に付ける雨仕舞いの役割を兼ねた装飾瓦ですが、この装飾に鬼の面を施し、家の厄除け・魔除けともしていました。菊間町でも多く生産されています。

また、菊間町にある寺院・遍照院(へんじょういん)では、節分大祭に鬼瓦神輿を担いで厄除けを行うなど、菊間瓦の特徴ともなっています。

遍照院の大鬼瓦

遍照院に奉納されている大鬼瓦

瓦の歴史

日本に瓦が伝えられたのは、588年(崇峻天皇元年)、奈良の飛鳥寺(別名:法興寺もしくは元興寺)を造営した際といわれています。

『日本書紀』によると、朝鮮半島の百済から麻奈文奴(まなふぬ)、陽貴文(やんぎふん)、陵貴文(りゃんぎふん)、昔麻帝弥(きまてや)という4人の瓦工と2人の寺工(てらたくみ)と一人の鑢盤(ろばん)博士が来日し、日本最初の仏寺である飛鳥寺の造営を担当したとされています。

このときに使用した瓦が日本最古の瓦とされ、発掘調査された際に創建瓦が出土しています。
その後、寺の造営とともに瓦は地方にも広まり、藤原宮、平城京、長岡京などの宮殿にも瓦が葺かれるようになります。

菊間における製瓦の始まり

愛媛県今治市菊間町での瓦作りが始まったのは、日本で初めて瓦が使用された約700年後の弘安年間(1278年~1287年)と伝えられています。
伊予の豪族・河野氏の城に瓦を納めた記録があり、城跡からは菊間瓦の破片が発見されています。

1573年(天正元年)安土城築城の際に、織田信長が瓦の先進国であった中国から瓦博士の一観を招き、「燻し瓦」など新しい瓦の製法を指導させたといわれています。
一観は、菊間も訪れており、その際に木型製法など新しい瓦つくりの技術を伝えました。
この製法によって菊間瓦の大量生産が可能になり、後の発展に大きく寄与します。

木型

いろいろな木型(かわら館所蔵)

瓦株制度のもと御用瓦として成長

江戸時代になると、1777年(安永6年)松山藩が瓦株制度を作り、瓦を生産・販売する業者を制限し許可証を発行しました。菊間では26株が認められていました。
職人が他の藩へ技術を流出したり原材料を持ち出すことを禁止したほか、吟味役をおいて品質の改良や職人の養成を行い、瓦の生産を保護したため生産量も増えていきました。

これらの窯元は、藩の御用に応じた御用瓦を製造するだけでなく、神社仏閣なども多く手掛けていました。

遍照院庫裏鬼瓦

1833年(天保4年)遍照院庫裏鬼瓦(市指定文化財/かわら館所蔵)

御用瓦としては、1818年(文化15年文政元年)京都御所御営繕の際に御瓦を納入したり、1845年(弘化2年)大山祇神社に御用瓦を納入するなど数多くの藩の屋敷や城などを手掛けています。

皇居御造営御用瓦納入の栄誉

明治時代になり、1871年(明治4年)廃藩置県に伴い、瓦株制度は廃止され、瓦の生産は自由になりました。
新しく瓦を生産する業者が増え、製造業者は43軒になり、生産数もこれまでの倍の400万枚にも増えました。

1883年(明治19年)には、菊間瓦の歴史において最高の栄誉を受けました。
これまでの御用瓦の実績が認められ、宮内省から御下命を受けた皇居御造営瓦の見本瓦が特選に選ばれたのです。
このご用命に預かったのは、三河瓦、和泉瓦、菊間瓦の3産地の瓦のみでした。

皇居万十軒唐草・軒瓦

皇居万十軒唐草・軒瓦(かわら館所蔵)

菊間瓦は、皇居御造営の御用瓦として14万枚の瓦と鬼瓦1対を献上しました。
この栄誉を受け、菊間瓦の名声は全国に広がりました。

近代化と技の伝承

大正時代には、菊間瓦の業者でも1920年(大正9年)に土練機、荒地出し機、生成機(切断機)など、いろいろな機械が導入されます。
作業が大幅に機械化され、技法も格段に進歩していきました。

しかし、特殊な瓦は機械では成型できないため、鬼瓦を作る鬼師による手作業の優れた技が菊間瓦の特徴として伝承されます。

また成型した瓦の表面を磨く工程でも、手作業による伝統的な技術が受け継がれています。
乾燥によるゆがみを防止したり、なめらかな光沢のあるいぶし銀の光沢を一層美しくするために、手作業でしかできない秘技が菊間瓦の特色の一つでもあります。

新たな用途への挑戦

約750年間日本建築を支えてきた菊間瓦は、適度な吸水性があり結露と屋根板の腐食を防いだり、夏涼しく冬温かいなどの快適性があり、堅牢で非常に丈夫な瓦で塗り替え等のメンテナンスも必要ありません。これらの特徴をさらに高めるために、破壊試験、吸水試験、耐寒試験などを繰り返し行い、さらによい菊間瓦作りのための研究がされています。

しかしながら、現代の住宅の洋風化や瓦の多様化により、日本瓦(粘土瓦)を葺く住宅が減少している時代の流れには逆らうことができません。

そこで、新たな挑戦として、菊間瓦は屋根から下り、瓦タイルや外壁材などとして用いるなど新たな用途への研究、提案をしています。

階段に用いられる菊間瓦

階段に用いられる菊間瓦

また、装飾品やコースター、お皿、ランプシェード、花器などの身近な日用品としてもいろいろな商品を生み出しています。

菊間瓦を用いた皿

菊間瓦を用いた皿

伝統技術を守りながら、品質向上、新たな商品への挑戦など、菊間瓦はこれから新たな発展をしていくでしょう。

菊間瓦を学び、菊間瓦に触れる

1997年(平成9年)菊間瓦の歴史と伝統を見ることができる施設『かわら館』が完成しました。

かわら館

かわら館

館内には、多くの歴史ある菊間瓦が展示されており、製瓦についても学ぶことができます。
また、隣接する『実習棟』では、瓦粘土を用いて実際に作品を作ることもできます。

かわら館の詳細については、こちらもご覧ください。
菊間町「かわら館」菊間瓦750年以上の歴史を学び・体験できる施設