今治地域地場産業振興センター マーク 〒794-0042
 愛媛県今治市旭町二丁目3−5
TEL (0898) 32-3337
FAX (0898) 32-8589




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今治タオル
今治タオルのあゆみ
8世紀の終わり、平安時代に三河国に漂着した外国船によって綿花の種子が持ち込まれ、西日本の温暖な地方で栽培されるようになりました。そして18世紀江戸時代に入り、今治地方では白木綿(綿織物)が生産されるようになりました。今治の綿製品は“伊予木綿”と別格視され、大阪や京都などで名声を得ましたが、明治時代に入ると、白木綿が次第に衰退していきました。明治19年、矢野七三郎氏が国内に流通し始めた安くて品質の高い輸入木綿や、紡績糸を使う大阪、兵庫の勢力に対抗するため、独特の風合いをもつ「伊予綿ネル」の技術を今治に導入し、綿ネル製織を開始しました。

日本一のタオル産業のはじまり(百十余年の歴史)
明治27年、綿ネル業に携わる阿部平助氏が大阪で偶然出会った1枚のタオルに触発され、現在の今治市風早町に綿ネルの改造織り機4台を据え付け、タオルの製織を開始したのが始まりです。そして大正13年頃、高級なイメージをもつジャガード紋タオルが生産されるようになり、現在の日本一のタオル産地のスタートとなりました。
現在、今治は、世界最高の品質を誇るタオルの一大産地として、国内で生産されるタオルの5割以上を生産しています。

参考資料:今治市立図書館ホームページ タオルびと

タオルづくりを支える清冽水(名水晒し)
 今治タオル産地には、高縄山系を源流とする蒼社川の伏流水や霊峰石鎚山より流れ出た地下水など、極めて重金属が少なく硬度成分も低い、晒しや染めに適した良質の水が豊富にあります。この天然の軟水を用いて晒しを行うことで繊維にやさしい仕上がりとなり、繊細かつ柔らかな風合いや鮮やかな色が表現できます。絶えることのない清らかな水を使い、今治タオル産地の染色技術はハイレベルに向上し、世界最大のタオル産地を形成しました。今治のタオルづくりとその品質を支えているのは、美しく豊穣な水資源なのです。

タオルソムリエ資格試験制度
 今治商工会議所と四国タオル工業組合は、平成19年度から、タオルについて「正しく理解」し、その知識とスキルを活かして、お客様が「手に入れたい・手にしたい」タオルを選び勧めてくれるアドバイザーの育成を目的とした、タオルソムリエ資格試験制度を実施しています。

独自の認定基準を設けて品質を保証

 村上水軍の血を引く先進気鋭の気質は、独自に品質基準を定め、質の向上を進めていくこだわりとして現れています。今治タオルは、百十余年の歴史を重ねる中で幾多のノウハウを蓄積してきました。素材選びから、織り、染め、後処理に至るまで、卓越した職人技が相互に協働する完結した産地だからこそ、他に真似のできない新しいものづくりが可能となるのです。
今治タオル産地では品質を確実に保証するため、「四国タオル工業組合」が定める独自の認定基準に合格したものでなければ今治タオルブランドのマーク&ロゴの使用を認めていません。



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桜井漆器
廻船業者の発生
 桜井漆器の起源は、江戸時代後期、19世紀前半までさかのぼると言われています。国分・古国分を除く桜井地方は、江戸時代後期(1765年)に松山藩から天領(幕府直轄の領地)になったことで、桜井地方で収穫された年貢米は、幕府の御用米として当時の主要な交通手段であった帆船より、主に別子銅山(新居浜市)や大阪へと運ばれるようになりました。その港となったのが、桜井の河口港であり、瀬戸内海の交通の拠点として次第に発展していきました。こうして他の地方へと往来が活況を呈するにつれて、商業活動も活発になり、その中から御用米の運搬を業とする廻船業者が発生しました。

春は唐津、秋は漆器
 やがて廻船業者は、必然的に大阪商人とも関わりを持つようになり、大阪の紀州屋敷商人の勧めで、帰り船に紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器などを仕入れて帰ったと言われています。その漆器が寺社や伝教信者から予想外の歓迎を受けたことから、黒江の業者と直接取り引きするようになり(19世紀前半)、その販路は九州へと拡大していきました。
一方、当時九州の唐津、伊万里とは、すでに陶器の商取引が行われていました。そして、春にはその陶器を関西方面へ行商(春じょうげ)し、帰りに漆器を仕入れ、秋にはその漆器を九州方面へと行商(秋じょうげ)する、混合行商が次第に確立していきました。

椀舟行商の発展
 混合行商を続けるうち、膳や椀といった漆器の売れゆきが非常に良好なこと、陶器に比べて軽く高価で利潤も多いことなどから、やがて漆器のみの行商へと移行していったと言われています。こうして桜井地方で発祥し、発展した漆器行商船のことを椀舟(わんぶね)と呼び、その行商は広く全国各地に雄飛していきました。

桜井漆器の登場と櫛指法
 椀舟行商によって販売高を増やすにつれ、“何も遠隔地の黒江から仕入れなくとも、地元で製造すれば利益も大きくなる”と考えられ、当時(1830年頃)桜井において漆器製造を始めたのが、今日の桜井漆器の起源と言われています。そして、月原久四郎氏により、重箱の最も破損しやすい四隅の接着部分に櫛の歯のような凹凸を造り、噛み合わせて接合する独自の技法(櫛指法)が考案されたことによって、堅牢で安価な桜井漆器の名が、全国に知れわたるようになりました。

月賦販売制度の発祥
 こうして桜井地方の商人は、桜井漆器、紀州漆器を主な商品として西日本一帯に販路を広げていき、行商先では「椀屋さん」と呼ばれ、親しまれたそうです。この椀舟行商による需要先のほとんどは農村であり、当時は現金売りでしたが、やがて秋の収穫後に支払う掛け売り、半期払い、月賦販売へと移行していきました。そして必然的に各地に集金業務を中心とする出先の店舗が設置されるようになり、月賦百貨店へと発展してゆくのです。これが、今日のクレジット商法の起源になるものと言われています。



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菊 間 瓦
菊間瓦の歴史
 四国を代表する伝統産業の一つである菊間瓦。その起源は、今から約700年前の鎌倉期弘安年間で、伊予の豪族河野氏支配時代に製造が始まったと伝えられています。
 この地方の温暖で雨の少ない気候が瓦の乾燥に適していたこと、原料の粘土や燃料の松葉にも恵まれ、輸送のための船便が便利だったことなどから、瓦づくりが発展していきました。

いぶし銀の輝き
 釉薬を使わず焼成した後に、空気を完全に遮断して「むし焼き」にする「燻(いぶし)化工程」が特徴で、焼成時に炭化水素ガスを接触させる事で、瓦の表面に銀色の炭素膜を形成させます。いぶし銀に輝くことから別名「いぶし瓦」とも呼ばれ、美しい光沢といつまでも変色しない堅牢で耐久性に優れているため、古くから全国各地の住宅はもとより日本建築を代表する神社仏閣に多数使用されています。
 菊間瓦は、長い伝統で蓄積された優秀な技術を有する瓦職人が一枚一枚を丁寧に仕上げ、窯元に代々世襲的に伝えられた焼成技術と、厳しく吟味された原土により、その独特の優雅ないぶし銀色の製品を創り出します。

伝統ある技法・技術
 安永6年(1777年)には松山藩が瓦株の制度をつくるほど生産高が向上し、文政3年(1821年)には大坂に「伊予松山菊間瓦棚(土蔵)」を開設するほどになり、江戸時代の久松藩時代には、窯元を27に制限し保護しました。当時から菊間瓦は瀬戸内だけでなく江戸、台湾、朝鮮、中国にまで販売され、とくに1884年(明治17年)には皇居に御用瓦を納めるという栄誉を得ています。その伝統ある技法、技術によって作られた格調高い美しさは、全国でも高い評価を得ています。

菊間瓦の特徴
 現在は近代技術を集結した、焼成窯(ガス窯)で高温度・長時間の焼き上げ、製品は厳正な選別をもって品質管理、日夜研究を重ねています。

 【菊間瓦の特徴】
  1,葺き上げが優美で、品性が高く光沢がある。
  2,堅牢で耐久性があり、いつまでも変色しない。
  3,断熱性に優れ、夏涼しく冬暖かい。
  4,吸水率が低く、排水性が非常に高い。
  5.種類が豊富で、屋根の表現の自由度が非常に高い。



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伊予の銘石 大 島 石
大島石の歴史
 1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により築城された大阪城と、藤堂高虎の命により築城された今治城の築城に参加した、今治出身の石屋治右ヱ門。彼には、今治城築城後、築城の機密事情を封じる目的の為、藩主より処刑命令が出されました。その難を何とか逃れた治右ヱ門は、大島に辿り着きます。そこで、良質の花崗岩層が埋もれているのを知り、自らの技術を生かして切り出したのが、大島石のルーツだと言われています。
 大島石の採掘が本格的に始まったのは明治初期といわれており、江戸時代から美しく堅牢な石として知られていましたが、当時の採石技術の未熟さ、搬出の難しさなどから、一部の人のみが知る名石でした。しかし、昭和30年以降墓石用に需要が急増したのに伴い、搬出用、機械や採掘用の削岩機、ジェットバーナー(切削機)などの設備が導入され、生産は大きく増加しました。

大島石の特徴(青磁の輝き、100年品質)
 石材の最高級とされる大島石は、花崗岩特有の雲母、石英、長石の配合の妙が美しく、石目も細やかで、青磁の肌を感じさせる気品は、まさに“石の貴婦人”の名にふさわしいものがあります。 また、建墓した時、周囲を圧倒する気品と風格を持つのも大島石の特徴です。 石の堅さ、吸水率の低さは、国産の花崗岩の中でも一、二を争うもので、このことは堅牢さ、長期にわたっての品質の安定、また、研磨による光沢の優れていることを示しています。国産の花崗岩の中でも、特に大島石は堅くて石に粘りがあると言われています。 また、吸水率が低く、どんな過酷な条件の中でも真の石の強さを示し、永く建墓時の状態を保ちます。 なにより、石の堅いこと、吸水率の低いことは、研磨によって美しい光沢を得ることができます。

 大島石の最大の特徴は、建墓時の状態を永く保ち、決して色褪せしないことです。 むしろ、時が経つにつれて青味が強く感じられ、一層深みのある石肌を示し、永く美しさを保ちます。大島石のもつ石目、石肌の美しさ、気品、風格、堅牢さは、大島石特有の優れた特性であり、永い伝統と実績に裏づけられて、まさに100年品質の名にふさわしいものがあります。

 「かたい」「風化に強い」「変色しにくい」「水をふくみにくい」という特性から、古くは石塔や宝篋印塔に、近代に入っては、国会議事堂・赤坂離宮・大阪心斎橋・愛媛県庁舎・愛媛県武道館など、建造物にも用いられています。



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海事都市 今治
日本最大の「海事都市今治」の誕生
 今治市は平成17年1月の合併により、世界でも類を見ない海事産業(造船業・海運業・舶用工業)が集積する「日本最大の海事都市」が誕生しました。特に、外航船主の集積は、世界を見渡しても香港かピレウス(ギリシャ)に匹敵すると言われ、更に全国屈指の造船業を加えた海事産業の集積都市は、世界的にも例がないと言われています。

造船集積日本一、不動の造船王国
 今治市の造船業は、日本の造船界を代表する今治造船(株)(建造量国内第1位、世界第4位)や(株)新来島どっく(国内第3位・世界第6位)の本社など、全国一の集積を誇る18事業所を有し、建造隻数では国内の15%を占めています。また、今治市に本社や拠点を置いている造船会社のグループ全体では、日本全体の4分の1を超える船舶を建造し、建造隻数・建造量ともに不動の造船王国の地位を築いています。
 舶用工業の分野では、ハイテク技術を駆使した最新鋭の機器が、今治の事業所から次々誕生し世界中の注目を集めています。造船所の周辺にはこれら舶用機器製造事業所も数多く集積しており、全体で9千人が働く日本一の造船団地を形成しています。

海運王国、世界に通じる今治船主
 今治市の外航海運業者は、約50社あり、日本の外航船(外航商船隊)2,009隻のうち約30%にあたる600隻の船舶を保有しています。一方、内航海運業者は、250社に達し、船腹量は県内シェアの60%、国内の7%を占め、外航船舶の保有隻数や内航の船腹量からいっても日本一の座を誇ります。

世界に誇る「海事クラスター」の形成
 こうした産業集積を背景に、シップファイナンスを手掛ける損保会社や銀行の支店、国の出先機関である今治海上保安部、今治海事事務所等は充実する方向にあります。また、海事専門法律事務所、船舶保険会社、船舶管理会社等の海事関連企業が相次いで進出し、集積が集積を呼ぶ「海事クラスター」の構築が加速し「世界に誇る海事産業集積地」として発展しています。

今治地域造船技術センターの設立
 人材育成機関には歴史と伝統を有する「国立波方海上技術短期大学校」や「国立弓削商船高等専門学校」(越智郡上島町)が置かれ、船を動かす高度な技術と知識を持つシーマンの養成が行われています。平成17年4月には、造船業界の課題である技術者の高齢化による人材不足に対応して、「今治地域造船技術センター」が設立されました。

新時代に向けた海事都市今治の創造
 今治市は、この恵まれた地域資源を最大限にまちづくりに活かすために海事都市構想を策定しました。将来像に「新時代に向けた海事都市今治の創造」を掲げ、海事産業の振興をはじめ、歴史文化の顕彰、将来の海事産業を担う人材育成を目指した諸施策に取り組んでいます。



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産業観光
見学
SHIMAP(しまなみ海道観光マップ)
 〜しまなみ体験メニュー(産業観光)〜
企業 (HOME) (見学)
タオル・ファクトリーショップ、工場見学 <四国タオル工業組合>
タオル美術館ASAKURA <タオル美術館ASAKURA>
桜井漆器製作見学 <伊予桜井漆器会館>
<戸倉屋漆器店>
瓦の紹介・製作体験 <菊間かわら館>
石の展示館見学 <ストーンギャラリー石楽>
食塩製造工場見学 <伯塩産業(株)>
食塩製造工場見学 <伯方塩業(株)>
世界食文化博物館 <日本食研(株)>
酒造工場見学 <(株)八木酒造部>

マップ
やきとりマップ(市商工労政課)

産業観光関連ページ
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