廻船業者の発生
桜井漆器の起源は、江戸時代後期、19世紀前半までさかのぼると言われています。国分・古国分を除く桜井地方は、江戸時代後期(1765年)に松山藩から天領(幕府直轄の領地)になったことで、桜井地方で収穫された年貢米は、幕府の御用米として当時の主要な交通手段であった帆船より、主に別子銅山(新居浜市)や大阪へと運ばれるようになりました。その港となったのが、桜井の河口港であり、瀬戸内海の交通の拠点として次第に発展していきました。こうして他の地方へと往来が活況を呈するにつれて、商業活動も活発になり、その中から御用米の運搬を業とする廻船業者が発生しました。
春は唐津、秋は漆器
やがて廻船業者は、必然的に大阪商人とも関わりを持つようになり、大阪の紀州屋敷商人の勧めで、帰り船に紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器などを仕入れて帰ったと言われています。その漆器が寺社や伝教信者から予想外の歓迎を受けたことから、黒江の業者と直接取り引きするようになり(19世紀前半)、その販路は九州へと拡大していきました。 一方、当時九州の唐津、伊万里とは、すでに陶器の商取引が行われていました。そして、春にはその陶器を関西方面へ行商(春じょうげ)し、帰りに漆器を仕入れ、秋にはその漆器を九州方面へと行商(秋じょうげ)する、混合行商が次第に確立していきました。
椀舟行商の発展
混合行商を続けるうち、膳や椀といった漆器の売れゆきが非常に良好なこと、陶器に比べて軽く高価で利潤も多いことなどから、やがて漆器のみの行商へと移行していったと言われています。こうして桜井地方で発祥し、発展した漆器行商船のことを椀舟(わんぶね)と呼び、その行商は広く全国各地に雄飛していきました。
桜井漆器の登場と櫛指法
椀舟行商によって販売高を増やすにつれ、“何も遠隔地の黒江から仕入れなくとも、地元で製造すれば利益も大きくなる”と考えられ、当時(1830年頃)桜井において漆器製造を始めたのが、今日の桜井漆器の起源と言われています。そして、月原久四郎氏により、重箱の最も破損しやすい四隅の接着部分に櫛の歯のような凹凸を造り、噛み合わせて接合する独自の技法(櫛指法)が考案されたことによって、堅牢で安価な桜井漆器の名が、全国に知れわたるようになりました。
月賦販売制度の発祥
こうして桜井地方の商人は、桜井漆器、紀州漆器を主な商品として西日本一帯に販路を広げていき、行商先では「椀屋さん」と呼ばれ、親しまれたそうです。この椀舟行商による需要先のほとんどは農村であり、当時は現金売りでしたが、やがて秋の収穫後に支払う掛け売り、半期払い、月賦販売へと移行していきました。そして必然的に各地に集金業務を中心とする出先の店舗が設置されるようになり、月賦百貨店へと発展してゆくのです。これが、今日のクレジット商法の起源になるものと言われています。